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自然農&無農薬・無化学肥料栽培をし始めてはや10年、。気が付けば30代も後半に、。 日々のうんちゃらかんちゃらをとぼとぼと記録していく日記です 有機農業・車いじり・ネコ・考え事、、。 なんだかカオスだけど、それが僕。
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農をしながら生きていく
自然界の理を知って、うまく活用し、自らもその一部として生きていく。
そんな生き方が、憧れであり、理想でした。

2017/04/25から連載していた、『仙人への旅の途中』、
園主の幼少時代、「自然の中で生きていきたい」と思い立ってから、今に至るまでを中心に、そしてその先について、連載終了後は気が向いたときにぼちぼち更新しているカテゴリーです。

そろそろ、ある程度まとめることが出来たので、目次ページを作ってみました(当記事)

誰かの人生の足しに、暇つぶしのお供に、この記事がなるとしたら、嬉しいです。
―――――――――――――――――

仙人への旅の途中 (古い順)

1 自己紹介・農園概要説明                2017/04/25

2 仙人の芽生え                        2017/05/25

3 具体的に夢を持つと、応援してくれる人が現れる1   2017/06/25

4 具体的に夢を持つと、応援してくれる人が現れる2   2017/07/25

5 農業高校入学と 仙人基盤固め             2017/08/25

農高編 一度真逆に見えるところまで突き詰めてみたらいい
 2017/11/15

農高編 伝統スタイル?最先端?いやいやハイブリッドで行きましょう
 2017/12/25

農高編 きっかけはどこに転んでいるかわからない
 2018/01/25

農高編 進路選択 有機農業との出会い。方向転換もしたなぁ
 2018/03/25

10 農高編 農業高校生の進路探し               2018/03/25

11 農高編 農高生独特の青春 農業鑑定競技とFFJ①  2018/04/25

12 農高編 農高生独特の青春 農業鑑定競技とFFJ②  2018/05/25

13 大学・宮崎県へ 夜汽車に揺られて 敷かれたレールの上・レールの外の自由な道 
2018/06/25
  2018/07/25
15 社会人時代と今の営農 人の縁、タイミング 色んな所で助けられながら
  2018/08/25
16 会社員をば抜け出して 農にかまけて構われて おかげさまで農家です
  2018/09/25
17 仙人への旅をゆく青年からの、世の中へのお願い 農業・農民と政治
  2018/10/25

18 有機農業 忍者と、仙人                   2020/03/01

19 めがね農園のこれまでとこの先                  2022/04/01

20 
長野県有機農業研究会 会長から一般会員へ、。    2023/03/02


番外
仙人への旅の途中 の途中経過         2023/03/04


―――――――――――――――――

その後も僕が農民である限り続きますー。

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いやはや、更新を告知したのは3年前の3月だったのか、、。
書き込む準備まで済ませ、『よーし』といった所で、
あの年は確定申告をギリ終えたころ、PCが壊れてしまったんだよなぁ、、。

書き上げていた『仙人への旅の途中』も
データが復元できず、「お、、終わった、、、。」と
結構な焦燥感と喪失感に包まれていたのを覚えています、。
二年くらいかけて書いてたのが全飛びだったんだもの、、。

そしてなんと、この度引っ越しに伴い備品を整理していたら!
なんとデジタルデータのバックアップが見つかったのです!!
ということで、喜び勇んで更新開始しました!(笑

この更新は基本的に日々の更新に挟んでしようと思っていたんだけれど、
『農民新聞』さんに連載させていただいていた頃合いを思い出し、
過去日付でのupにしようと思い返しました。
またPCデータ飛ぶのが怖いのでね、とっとと更新します(笑

なので日記タグ
『特集記事 仙人への旅の途中 不定期掲載』

から潜ってみて頂けると幸いです。
今ではちょっとイタいかもしれない、園主の自伝になっています、、、(;^^A

、、、。いんや、読み直してみたら結構頑張ってる?


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過日、令和5年2月26日(日)、総会が行われ、
任期満了に伴い、会長職解任の運びとなりました。

会への所属はもう10年ちょっとになるんだけれど、北信地区地区長から始まり、
2017年から会の事務局、2019年からは会長を務めさせていただきました。本体役員総計6年、、。

任期中、北は北海道から南は山口、熊本まで、オンラインでの助けも借りながら、図々しく全国区で沢山の皆様にお世話になりました。人付き合いが苦手な自分ですが、沢山の『仲間』に囲まれて、幸せな任期を送ることが出来ました。


『長野県』の事業にも関係させていただき、任期中には
長野県第3期有機農業推進計画、そして4期計画の策定・運用、
主要農作物種子条例・遺伝子組み換え作物作付ガイドラインの制定、
県有機農業推進プラットフォームの創立と、大きな事柄が複数ありました。どれもこれも自分の人生上、『取り組まずにはいられない』事柄でしたので、苦しくも意義深く、関わらせていただくこととなりました。

また、長野県有機農業企画委員会への委員参加を通じ、会員はじめ有機農家、持続可能な暮らし方を求める県民の意見を県行政に繋ぐ橋渡しができたことも、とても貴重な経験だったと感じています。関係各位に心より御礼を申し上げます。


これだけ書いてみると大仰な会のようだけれど、
長野有機農研は、『持続可能な社会を作り上げる』ことを目的としている会であるので、一番大切 なのは『地に足のついた土着の小さい行い』だったりするんです、。

各地区での少人数なほっこり交流会、
畑での日々の動植物・虫・空気とのふれあい
(こういうのを『風土』っていうのかな、、。)
そんな行いが一番大切だったりするんです、。

『ふつうの会員』にしていただいた今ですが
これからはそんな、自己の根本、
一番近い所と根っこに立ち返るような活動(取組)を
じっくりやっていきたいと思います。

任期中支えてくださった皆さん、本当にありがとうございました。これからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。


さぁて、今日の長野県は雨。その後ぽっかり晴れ続き予報。
乾いてカピカピだった地面にしっかり水を吸ってもらって、その間に自分は今年の作付に向け予定の整理をつけて、
ぽかぽか晴れた所で、自分と畑を耕し始めようと思います。

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有機農業って、時に屁理屈と取られる様な細かい技術や事象を組み合わせまくって行って、結果大きな理屈を成す取り組みなんだよなぁ。
と、ずっと思っていたのですが、

ちょっと関係のない所で、
『万川集海』という言葉があることを知りました。

江戸時代、忍術の流儀を体系的にまとめ上げた、甲賀の忍術書のタイトル。「細い川もたくさん集めれば海になる」という意味なんだそうです。

忍者にも小さい頃から興味があってよく調べていたけれど、初めて知りました。僕にとっては、忍者の先には仙人という存在があって、それになりたかった。
地の理、人の理、天の理、そのすべてを知り、うまく活かして物事を成す存在。

有機農業やらせてもらっているけれど、僕はやっぱり仙人になりたかったらしい。うん。

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農民新聞社さん発行『農民新聞』にて
約1年半連載させていただきました!!

担当さんについていただいてモノを書く初めての経験。
いろいろ勉強になり、また、楽しかったです✨ありがとうございました✨

以降は未掲載作。
大体各月25日とかに気が向いたら更新します✨

2018年10月25日更新!

※前回の記事はこちら
※目次的まとめページはこちら
――――――――――――――――――――――
小さなころから夢を見て
諦められない一般社会も一度捨て、
地域社会や見てきた自然、大切なものを守るためにと、続けている営農ではあるが
「望んだ状態」であるとはいいがたい所も、ある。

政治と、出来事
先に書くが、就農してから結構翻弄されました。
良いことも、心配事も、どちらもありました。。
それ以前にもTPP等心配事は降りかかって来ていましたが、
直近の2年間くらいに絞り、時系列で箇条書き的に追っていこうと思います。


良かったこと
・日長合同大会  
2017年3月。日本有機農業研究会・長野県有機農業研究会の合同大会が行われた。実に40年来らしい。そして長野県有機農業研究会の事務局を拝命した。もともと会員ではあったが、出来ることが飛躍的に増え、また『やらなければ』と思わせる事柄も沢山起きた。同時に農民新聞での連載のお話をいただいた。

・第3期長野県有機農業推進計画(以降 有推計画)  
各県ごとに有機農業の推進のため、おおむね5か年の計画を策定するのであるが、事務局就任の年が当たり年。ちょうど改定の年だったのである。県内関係団体ということで県の方から要望聞き取り調査の取りまとめを依頼され、喜んで引き受けた。
あの人が言ってくれた方が発言に重みが出るなぁ。あの人なら連れて来さえすればこれは語ってくれるだろう、、。皆の口を通じ、私の言いたいことは余さず伝えることが出来た。そして軒並み、計画や運用方法として採用していただくことが出来た。
有機農業や環境保全に対して20年来思っていたことを、ほとんどそのまま伝えることが出来たと思った。とても有意義な活動が出来たと思っている。
また、有推計画を策定する中で、先進事例(有推計画について民間から要望を出した)があるということで、県外の有機農業者団体の方にお世話になる機会があり、その後の連携にもつながった。


心配ごと
・環境保全型農業直接支払制度のGAP要件化(以下GAP要件化) 
有推計画の策定でお世話になった県外団体から、今度は逆に、GAP要件化について長野の様子を教えてくれないか と、連絡をいただいた。有推計画の策定のため県の職員さんと作業をする中で、県としても困惑しているとお話をいただき、連載の番外編として農民新聞にも掲載させていただいた次第である。それをまた別の有機農業推進団体の方が目に留めて下さり、農水省農業環境対策課有機農業推進班の課長補佐の方に電話で確認をして下さる事態にまで発展した。
礼儀作法もわからないが、何かせねばと思いだけが先行し、地元選出の国会議員に直接書簡を渡してみたりもした。結果としては国の方針は変わらないとのことであったが、現場や業界にて反発の声があったということは、少なくとも国にも届いたと考えている。

・種子法廃止
「主要農作物種子法」、私が農業関係の法律で最初に知り、農の道を目指すきっかけともなった法律だった。『国民が飢えることがないよう、食糧の元である種子生産には、国が責任を持って取り組む』そう明記された、素晴らしい法律であった。が、それが廃止されるとわかった。
廃止前から「まずいことが起こる」と周囲には伝えていたが、ただの一人の農家が周囲に訴えたところで、波も風も立てることは出来ず、種子法は静かに廃止されてしまった。「吠えなくては」と、思ったが、自分以上に種子法の存在を意識している人に、まだ会ったことすらなかった。。もどかしくやるせない思いに駆られながら、それでもできることはないか と、考える日々だった。

廃止されてからであるが、「まずいことになったんじゃないか?」と動いてくれる同志が見つかり、「とりあえず学習会を開催しよう」ということで300人規模という、大きなホールを貸し切った。それまであまりにマイナーな法律だったので、満員になるとは正直思っていなかったのだが、共にイベントを作ってくれた皆さんの努力が強大で、なんと当日は満員以上の観客となった。他にも県内各地で学習会が開催され、クラスタ的に県民運動の体を成してきた。有志連携の動きも出ており、県としても条例を制定することが決まり、地元紙の記事にもなった。「県民の活動がここまで議会に影響を及ぼしたのは快挙だよ」そうおっしゃって下さる県議さんさえいらっしゃる。



心配事にも全力で当たったおかげで、得るものはあった。
社会を、農民一人一人でも変えられるのかもしれない。
実感と共に今、そう思っている。これは苦労の中で得た、嬉しい側面である。
好きも困りも含めて、以上のことに協力してきた昨今であるが、
なぜこのような取り組みをしたのかと自問することもある、。

その時それをやれる人が、 他にはいなかったのだと思う
やらなくていいなら、やらなかったとさえ、思う

個人としては、ここまで来るのにだいぶ疲弊してしまった。
正直、処々の事象が重なりすぎて営農を打ち切らなくてはならないか?という淵まで、追い詰められてしまっている。

「政治になんて翻弄されるやつが悪い」
「営農回せ。運動なんて、構ってる暇はないでしょう」
そう言われてしまえばそうなのだ。
でも、自分が言わなかったら、誰が言ってくれるのだろうか、
思いがあって営農しているからこそ、より一層、
『「農への関わりは浅いが、思いはある」という、過去の自分のような人々の代弁者を務めなくてはならない』
そんな気持ちにかられて、己として、活動せざるを得なかったのである。

人のせいにしてしまっては、情けない
本業である農業を回してからこそ、主張はするべき
そういわれてしまえばその通りなのだが、
居ても立っても居られないことばかりが起こる、ここ数年なのでありました。

もはやこれは、政党や会派、派閥云々という話ではなくて、政治に携わる方々には
「政治は俺たちがやるから、農民は安心して営農していてくれ」
そう、言い続けてもらえる社会を、、堅持していって欲しい。

農民が、ただ農民として、生活し続けられる環境を、守り抜いて欲しい


これからも、仙人を目指したい。
が、やっとたどり着いた農家という生業を離れ、現代の一般人に、戻らなくてはならなくなるかもしれない。

そんな、瀬戸際で揺れる、思いだけいっちょ前に有機農業を始めた、
不安定有機農家である青年からの、世の中へのお願いであります。

『農民が、ただ農民として、生活し続けられる環境を、守り抜いて欲しい』
只々、お願いいたします。


つづく
けどここでいったん区切りとさせていただきます。
ご拝読、ありがとうございました。

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農民新聞社さん発行『農民新聞』にて
約1年半連載させていただきました!!

担当さんについていただいてモノを書く初めての経験。
いろいろ勉強になり、また、楽しかったです✨ありがとうございました✨

以降は未掲載作。
大体各月25日とかに気が向いたら更新します✨

2018年09月25日更新!

※前回の記事はこちら
※目次的まとめページはこちら
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バイトをしながらインディーズででも、農家になってやるんだ!!
地域の農家さんの田んぼを手伝ったり、畑作も少しづつ教わりながら過ごしていたある日、そう遠くない場所に『有機農家』さんがいると聞きつけ、話を聞きに行くことになりました。

ずっとやりたかった有機農業の実践者がこんな近くにいるとは! という距離でした。
会うと不思議な魅力のある人でした。人に相談する中で、『あの人の所なら行政を通じて研修生という形で農業を学べるよ』という話になり、役場にも何度も相談をし、研修生となることが決まりました。

有機農業の師も出来て、渡りに船の気持ちでした。イカダが急にタンカーになったように感じました。実際には自分の未熟もあるので、イカダがボートになった位だったのかもしれませんが、、、。


以降、研修を受けながらの自前の装備の段取りをしました。農地や機械などです。「貸してあげるよ」と言ってはもらえましたが、それでは依存度が高すぎる。

私はあくまで自給志向だったので、モノも自己所有、「独りででも生きていける能力の保持」という理想は変わらず。しかし先々どれ程資金が必要になるのかわからないし、なるべく使いたくはない、、。無い資金を絞り出しての選定なので、中規模な機械で耕作することも考えました。

ティラーなら最悪トラクタがなくても、自給程度の耕起や、田の代かきなら出来る、、。刈払い機までしか使わない手動では1~3反が限度。。熟考に熟考を重ねたつもりで、自分と同世代の中古・ジャンクのツギハギ農機を低廉価格でかき集めました。それでもワクワクしていました(今なら後続者には勧めない。勉強にはなるが、心労と、要らぬ出費とタイムロスがデカい)。

併せて冬場の働き口も確保できました。この地域では冬に営農はできないのです。地域づくりのために参加していた市の農業団体のメンバーに、『野菜って冬は暇だろ?』ということで冬の働き先を紹介してもらいました。やれたらいいなとぼんやり思っていた酒造りでした。願ってもない出稼ぎ先。またも渡りに船でした。ボートにエンジンが付いたような気がしました。

順風満帆!!よし行くぞ!と、その後無事に就農もできましたが、初年度から取引先が高跳びしてしまったり、頼りの綱のオンボロ農機具が相次いで故障したり、死ぬ直前の交通事故を食らったり、今年なんてキュウリ畑の水源が枯れて雑草すら伸びないような大干ばつに見舞われて苦労していますが、その度周囲の誰かに助けていただいて、心豊かに、楽しくやれています。
「必死に頑張ってやってたら、誰か助けてくれる人が現れるからね」就農初期に、農地の相談を聞いてくれたご婦人の言葉です。本当にその通りだと思います。

『おかげさま』で、めがね農園は何とか回っています。有難う。

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農民新聞社さん発行『農民新聞』にて連載中!!
2018年08月15・25日合併号に掲載!

※前回の記事はこちら
※目次的まとめページはこちら
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農業と全然関係ないと思って入った物流企業。それでも、田舎であり、産地でもある当地において、季節になればフルーツの出荷がメインの仕事になるのでした。集配中の楽しみであるカーラジオからも季節の農の話題。そして集配をするエリアは田畑に囲まれている。初夏の出穂の頃、秋に稲穂の海が出来上がる頃には、どうしても心をそちらに向けさせられてしまうのでした。
 
一度は捨てたと思った思い、。給料も悪くはないしここに勤めていれば家庭を持つことだってできる。有機農業なんて始めたら、そんなの保証出来なくなってしまうのでは、、。それでも、、、。
 
と、心の中で揺れ動いていました。『農業に関わりたい』 という思いを刺激され続け、2度目の稲穂の海を見た頃には、「1年1作!いつまでもこの景色を会社員で見ているわけにはいかない!!」と、思い立ち、行動に移すことにしました。
 
まず、農地を探したり、就農の段取りをしよう。と、別企業に就職をし直しました。同級生の勤める電設業。TVが地デジに変わる直前で、2年間の期間限定で人手が欲しいという話を、少し前にもらっていたのです。
聞いた所時間や体力的にも、農業をする段取りが出来そうで、地デジ化完了までという〆切もあるのでダラけず頑張れそう。社長さんも理解してくれているなら、「辞める仕事」を嘘をついて探さなくていいなぁ。渡りに船でした。
 
その後は予定通り2年間、電気工事の補助員をしながら、段取りでした。
自転車で走り回って荒れている農地を探したり、その隣を耕作している人に聞きこんで、地主さんを訪ねて行ったり。正規のやり方なんてわからない、全てがマニュアルなしの突撃だったので、毎回ドキドキでした。

ガムシャラに道を求める中で、「草刈りだけしてくれれば何植えててもいいよ」「権利云々本当はあるんだけれど、地主の手伝いという体で管理してくれ」「機械必要だったら言ってくれ。貸してあげるよ」「兄ちゃんオモシロいな。一緒に田んぼ、やってみるかい?」等々、応援してくださる方々が見つかりました。今思えばグレーゾーンな運用ですが、何もわからないなりきに「これならいける!!農家になれるぞ!!」と、ほくそ笑んでいました。


地デジ化が終わる頃には、『農地の話も出て、当面の資金の段取りもついた。コンビニの深夜バイトをすれば、社会的に払わなきゃいけない分の現金くらいは用意できそうだ。』と、見切りをつけ、辞めた後のコンビニバイトの内定も頂き、ついに会社員を辞めることになりました
農家へのホントの1歩を、踏み出すことになったのでした。
営農というのにはツギハギすぎ。生活水準は段階が進むごとに落ちていきました。今思えば、クルーズ船やタンカー行き交う大海に、手作りのイカダでこぎ出すようなもの。どうかと思うような状況ですが、
「農の道に入れる!!自力でここまで来たんだ!!」そんな思い、それだけで、心は満たされ、満足していました。

つづく 
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~自力で来た!!と当時は狭い視野しか持てていませんでしたが、いつも誰かに応援してもらい、助けていただいてここまで来れたのだなぁ。と、今になって思っています。
今年も大干ばつでキュウリ畑の井戸が枯れ、大ピンチに陥りましたが、農業イベントで知ったツテから井戸屋さんを紹介していただき、対応済んで、きゅりも何とか実ってくれました。
写真はシオシオだった水不足キュウリの畑。いつもは伸びて困る畝間の雑草も、一度刈り取ったら枯れて伸びることすらできなくなっていました~

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農民新聞社さん発行『農民新聞』にて連載中!!
2018年07月25日掲載号に加筆修正!

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大学では、環境保全型農業を専攻していました。当時学術的に最先端な環境保全や農業に関する知識を貪るように学んでいました。宮崎県の農業試験場の見学では、地元の長野県とはまた違う課題や、在来天敵昆虫の農業利用に関する取り組みを紹介していただいたりしました。大学で所属研究室を決める頃合いには、腐植の分解能力の高い有用菌を単離培養して活用しよう!なんていう研究をしようとしていました。

が、その後「この大学で環境保全型農業について学ぶべきこと・学べる事は全部学んだ」という思い上がりもあり、農業を通じた人との関わり合いについて学ぶべく、方向転換したりもしました(笑 いや若い。この辺はまた別で、書いていけたらなぁと思います、、、。


『行政の中にありながらの仙人』への道は、中盤であっさり諦めました。進学校出身の友人たちを見るにつけ、普通科目での県職採用で敵うだけの受験勉強を今からする時間があるならば、自然農を現場で教わったりする方が、私の人生には必要で有意義!!と、感じたためです(笑)

そんな日々の中、田舎暮らしには必須だろうと思い受講した『農村文化論』的な講義での話。『過疎』について聞く機会がありました、。

「豊かな自然。常緑の山々と、温かい人々。宮崎はこんなに魅力的な場所なのに、なぜ過疎化が進んで行っちゃうと思う?」
「簡単だよ『若者が出て行ってしまうから』だよ。君が君の地元から出たら、それは『イチ過疎』なの。」

当たり前の話のようにも聞こえますが、静かな衝撃と、気付きを感じていました。同時期に宮崎に渡った友人との学外の学びから体感的に知っていたため、教授の言葉は心に『ストン』と落ちたのです。

友人と一緒に天孫降臨の地とされる高千穂の夜神楽を見に行った経験がありました。田植の様子や人々の生業を、一晩夜通しかけて舞うその神楽の中から、綿々と続いてきた人々の営みを感じることが出来ました。この神楽も、形の継承をもって、綿々と続いてきたんだなぁ、ココに人が居続けたんだなぁ。と。

高千穂で見た神楽の情景と現地での継承・営みに思いを馳せました。同時、地元にも小さい祭りだが、ずっと続いてきた祭りがあったなぁ。と思い浮かべました。続いて欲しいな と、素直に思いました。頭の中を何度も「君が君の地元から出たら、それは『イチ過疎』。」という言葉が響いていました。地元から私一人出たところですぐさま人々の営みが失われるわけじゃないが、それでも地元には戻らねば。ここまで学んだ私自身が『イチ過疎』をさせるわけにはいかない。そう、強く感じました。

やりたい農とは何なのか 農と農業 農業の中にも二種類ある 産業と生業。やりたい農は生業に近い。社会生活を営みながら、成り立つのかと言われれば難しい。直接的に仙人になる方法は、結局はわからずじまい、、、。

それでも一般企業に就職するのならば、全然農業と関係のない業界に行きたい。変に近いと個人的な思いが入りすぎて、仕事も出来なくなってしまいそうだから、、、。

そして、『余程偉くならなきゃ転勤なんてないよ』そう言ってくださった物流企業への就職をもって、地元に戻ったのでした。

つづく

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農民新聞社さん発行『農民新聞』にて連載中!!
2018年06月25日号掲載!

※前回の記事はこちら
※話のつながり的にはこちらから
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『若い時期を無駄にすることはできない』『行政への道も残る』と、第一希望への進学はあきらめ、遠く宮崎県の私大に進学することにしました。

初めて現地に赴いたのは、下宿先選定のためでした。寝台特急。父と初めての男二人旅。狭いB寝台で、特に深い会話もなく、ただただ揺られる二人でした。入学決定してなおキャンパスも見ていない大学、。揺れる列車のように不安定だけれども、確実に先には進める道を選んだんだ。気分としても、そんな感じで向かっていました。この先の将来に向かうことと、旅路を重ね、私はワクワクしていました。父も表面上は旅路にワクワクしているように見えました。が、内心どうだったのでしょう、。

就農して最近母に聞いた話によると、『あいつはどこか人里離れた秘境に移り住み、帰ってこないかもしれない。そのときは諦めよう、、。』夫婦でそんな話をしていたそうです。不安をよそにワクワクした表情で送り出してくれた父母。今になって当時の思いを聞き、感謝しかありませんでした。親の心子知らず。結果、就農出来ぬままでも地元に戻ることを優先し、卒業後には帰ってくることになったのですが、進学当時は地元を好きなわけでもなかったので、生き方によっては父母の予感は的中していたのかもしれません。最終的に『地元に戻る』という選択肢を僕に採らせてくれたのは、大学での学びから得た気づきと、同じ時期、違う方法で宮崎行を決めた、一人の友人と積んだ経験からでした。

寝台特急の旅路のように、内容は不安定ながら確実に進めそうな方法をとった私。一応聞かん坊ですが、安定志向の親の意向をギリギリ汲んだつもりでいました。時を同じく宮崎に向かったのは、高校時代に自然農の本を読ませてくれた友人でした。彼は自然農について実践的に学べる場に向かうとのことでした。
私には彼の進み方が、車窓に映る街の自動車のように見えました。平行して走る高速道路や、下道を自由に選択して走る自動車。良いな、若い内からの実践だ、そして自ら舵をとり、スピードも経由地も選べるスタイルだ。羨ましい、。もとより自由へのあこがれが強い僕でしたので、当時は羨望の念しかありませんでした。

似た方向に進むというのに、取る方法が違った友人と私。そこから10年ちょっとかかったけれども、現在お互い地元に戻り、それぞれ自分らしいスタイルで、有機農業を営んでいます。出会えたこと、今でも付き合ってくれていることに、感謝の念でいっぱいです。

長い旅路。仙人への旅路。最初は逃避だったのかもしれない。けれども、道中色んな進み方をして、並走してくれる仲間が出来て、あとどれくらいでたどり着けるのかわからないけれども、充実した、意義ある旅路になって来たなぁと感じています。


つづく

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農民新聞社さん発行『農民新聞』にて連載中!!
2018年05月25日号掲載!

※前回の記事はこちら
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農業高校特別編 農業高校生独特の青春 農業鑑定競技とFFJ②
~今回は後編です~

農業高校生の甲子園、『農ク全国大会』。僕はこの中の、「農業鑑定競技(以下農鑑)」というものに、没頭して取り組むこととなりました。

農鑑、とは、『農業に関する160以上の項目に、さらに小分けに各項ごと具体的な器具や機械、植物、病虫害や農薬の名称等が羅列された「農鑑実施基準」という表を基に、それぞれの項目について自主学習し、出題される40問の問題に各20秒~40秒間で答える』という形で行われる競技でした。「実施基準」には物の名称しか載っておらず、そのものの何が出題されるのかは、まるで知らされていない という競技なので、記載されている名称を基に、出来るだけ個々を詳しく調べ上げ、覚えなくてはならないのでした。

ネット黎明期の当時は、パソコンを開いても理科学系・農学、まして現場の情報などほとんど載っておらず、図鑑を何冊も借り、コピー機をうならせまくり、それでも載っていない情報は先生に聞き、微に入り細に入わたる先生も知らないような情報は、農家への聞き込みや、資材店への突撃で情報をかき集めるしか、ありませんでした。僕は毎日調べものをしている生徒でした。

「図鑑を持って歩いている人」と言えば、校内で僕のことを指すようになっていたと思います。人と違って目立つことにも、だいぶ耐性が付きました。必要に迫られる形で、普段話しかけることのない先生や街の大人達に話しかけるようになり、苦手だった他者とのコミュニケーションも、苦手なりに行えるようになりました。

さらにはこの競技、項目が多岐にわたりすぎているので、現在までの農の知識の根底になっています。高校や大学で学ぶ講義についても、そのほとんどは「農鑑実施基準」に網羅されており、その後の学びも全て、実施基準へのあとのせ・上乗せ で、現在まで来ています。

今思えば、農業高校・農クは、農業の世界で活躍できる力(もちろん他の社会でも活きるが)を、最短最年少で身につけさせてくれる仕組みとなっていました。卒業後もその恩恵は続き、全国的な農業系の集まりでも、参加するとOBが沢山いるため、同じ話題で盛り上がることが出来たり(「農業クラブの歌」とかは各校校歌以上に歌える人が多い)、当時は知り合いでなかった同年代でも、同じ全国大会の思い出を共有したりしているため、急に関係性が深まったりと、自分でも思わぬ形で当時の労が報われることがあります。


農業高校の特別な点は他にもあり、早期から資格試験に熱心に取り組ませてくれます。クレーンの操縦やガス・アーク溶接等は後半にならないと取得できませんが、危険物取扱者や毒劇物取扱者の試験は早々から全種取得を目指すことが出来、達成すれば『化学系の4年制大学を卒業したのと同程度の危険物に対する知識を有する』ことと、されているらしいです。農業高校は専門科目の学習があるので普通科に比べて一般科目の学習範囲が狭いですが、実践的に学ぶことが出来ます。かいつまんで学習しているので落ちはありますが、大学で普通科出身の友人と話をするときの、「理解のとっかかり」程度には、機能してくれました。他にも、農業経済コースを先行した仲間は、日商簿記検定を受験していたりと、卒業後若いうちから起業するのには最適な学習ができる環境にありました。
 
農業高校、、。若いうちからやりたいこと、興味の方向性が定まっていて、周りに流されずに過ごせる自信のある人には、ぜひおすすめの進路の一つです。狙いがあれば、若い内から充実した日々が過ごせることを、僕は保証します。

つづく

―――― 追伸 ――――
さらに、当時は僕のような学生は少数派で、どちらかというとまだ「今を楽しく生きたい!!」と、いわゆる「高校生の青春」を全力で謳歌するために学生生活を送る生徒が多かったのですが、教育実習で母校にお邪魔した際には、ある意味「真面目な学生」が増え、庭園の設計コンペで大学生等に混ざって応募し、見事受賞をしてくる なんてことも、都度都度達成されるようになっていました、、。すごい。
――――――――――――

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プロフィール
HN:
ねこひげ@めがね
年齢:
39
性別:
男性
誕生日:
1985/03/30
職業:
農家。
趣味:
にゃんこ、みぜっと、さんぽと旅。
自己紹介:
~ここ最近のあらすじ~
10年経っても諦められなかった夢、
自分の中でもぞもぞした夢。
叶えてその後、10年が経ちました。

『農家』になってはや10年、。
人もうらやむ夜更かし昼寝。自由が利くのはいいけれど(笑
手伝ってくれる仲間も出来た。、あとは稼ぐだけ!!のトコまで来た(笑
まぁそこまで。 まだ稼げてはないんだなぁ、、。
稼ぐ以外のやりたいことは、やり切ったからいいんだけどね✨


お客さんにもボカスカ買っていただけてる。「インディーズ ファーマー」って肩書は取れたw
あともうちょっと、。人が羨むぐらい稼いだら、世の中も勝手に変わるんじゃないかと思ってる、、。

まぁ、焦るな焦るな。忙しい中でものんびりと。納得のいくように、やりますv


_________________________________________

愛車、ミゼット2。小学生の時に気になり、「いつかは乗りたい」ともやもや過ごし、運転免許を取得した帰り、中古屋さんで偶然の出会い、そして即購入。以来17年、一緒にいてくれています。
今はお庭でお休み中。でもまたいつか、走りたいね。
_________________________________________


愛猫みるくは、大学の2年目、生後6日の所を拾い、そこから一緒に暮らしてきました。この4月、17歳で逝去しました。
早かったなぁ、長かったなぁ。
いつもありがとう、今もありがとう。

そんなこんなの僕なのでした。


2022 04月 更新。
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