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2018年07月25日掲載号に加筆修正!
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大学では、環境保全型農業を専攻していました。当時学術的に最先端な環境保全や農業に関する知識を貪るように学んでいました。宮崎県の農業試験場の見学では、地元の長野県とはまた違う課題や、在来天敵昆虫の農業利用に関する取り組みを紹介していただいたりしました。大学で所属研究室を決める頃合いには、腐植の分解能力の高い有用菌を単離培養して活用しよう!なんていう研究をしようとしていました。
が、その後「この大学で環境保全型農業について学ぶべきこと・学べる事は全部学んだ」という思い上がりもあり、農業を通じた人との関わり合いについて学ぶべく、方向転換したりもしました(笑 いや若い。この辺はまた別で、書いていけたらなぁと思います、、、。
『行政の中にありながらの仙人』への道は、中盤であっさり諦めました。進学校出身の友人たちを見るにつけ、普通科目での県職採用で敵うだけの受験勉強を今からする時間があるならば、自然農を現場で教わったりする方が、私の人生には必要で有意義!!と、感じたためです(笑)
そんな日々の中、田舎暮らしには必須だろうと思い受講した『農村文化論』的な講義での話。『過疎』について聞く機会がありました、。
「豊かな自然。常緑の山々と、温かい人々。宮崎はこんなに魅力的な場所なのに、なぜ過疎化が進んで行っちゃうと思う?」
「簡単だよ『若者が出て行ってしまうから』だよ。君が君の地元から出たら、それは『イチ過疎』なの。」
当たり前の話のようにも聞こえますが、静かな衝撃と、気付きを感じていました。同時期に宮崎に渡った友人との学外の学びから体感的に知っていたため、教授の言葉は心に『ストン』と落ちたのです。
友人と一緒に天孫降臨の地とされる高千穂の夜神楽を見に行った経験がありました。田植の様子や人々の生業を、一晩夜通しかけて舞うその神楽の中から、綿々と続いてきた人々の営みを感じることが出来ました。この神楽も、形の継承をもって、綿々と続いてきたんだなぁ、ココに人が居続けたんだなぁ。と。
高千穂で見た神楽の情景と現地での継承・営みに思いを馳せました。同時、地元にも小さい祭りだが、ずっと続いてきた祭りがあったなぁ。と思い浮かべました。続いて欲しいな と、素直に思いました。頭の中を何度も「君が君の地元から出たら、それは『イチ過疎』。」という言葉が響いていました。地元から私一人出たところですぐさま人々の営みが失われるわけじゃないが、それでも地元には戻らねば。ここまで学んだ私自身が『イチ過疎』をさせるわけにはいかない。そう、強く感じました。
やりたい農とは何なのか 農と農業 農業の中にも二種類ある 産業と生業。やりたい農は生業に近い。社会生活を営みながら、成り立つのかと言われれば難しい。直接的に仙人になる方法は、結局はわからずじまい、、、。
それでも一般企業に就職するのならば、全然農業と関係のない業界に行きたい。変に近いと個人的な思いが入りすぎて、仕事も出来なくなってしまいそうだから、、、。
そして、『余程偉くならなきゃ転勤なんてないよ』そう言ってくださった物流企業への就職をもって、地元に戻ったのでした。
つづく
2018年06月25日号掲載!
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『若い時期を無駄にすることはできない』『行政への道も残る』と、第一希望への進学はあきらめ、遠く宮崎県の私大に進学することにしました。
初めて現地に赴いたのは、下宿先選定のためでした。寝台特急。父と初めての男二人旅。狭いB寝台で、特に深い会話もなく、ただただ揺られる二人でした。入学決定してなおキャンパスも見ていない大学、。揺れる列車のように不安定だけれども、確実に先には進める道を選んだんだ。気分としても、そんな感じで向かっていました。この先の将来に向かうことと、旅路を重ね、私はワクワクしていました。父も表面上は旅路にワクワクしているように見えました。が、内心どうだったのでしょう、。
就農して最近母に聞いた話によると、『あいつはどこか人里離れた秘境に移り住み、帰ってこないかもしれない。そのときは諦めよう、、。』夫婦でそんな話をしていたそうです。不安をよそにワクワクした表情で送り出してくれた父母。今になって当時の思いを聞き、感謝しかありませんでした。親の心子知らず。結果、就農出来ぬままでも地元に戻ることを優先し、卒業後には帰ってくることになったのですが、進学当時は地元を好きなわけでもなかったので、生き方によっては父母の予感は的中していたのかもしれません。最終的に『地元に戻る』という選択肢を僕に採らせてくれたのは、大学での学びから得た気づきと、同じ時期、違う方法で宮崎行を決めた、一人の友人と積んだ経験からでした。
寝台特急の旅路のように、内容は不安定ながら確実に進めそうな方法をとった私。一応聞かん坊ですが、安定志向の親の意向をギリギリ汲んだつもりでいました。時を同じく宮崎に向かったのは、高校時代に自然農の本を読ませてくれた友人でした。彼は自然農について実践的に学べる場に向かうとのことでした。
私には彼の進み方が、車窓に映る街の自動車のように見えました。平行して走る高速道路や、下道を自由に選択して走る自動車。良いな、若い内からの実践だ、そして自ら舵をとり、スピードも経由地も選べるスタイルだ。羨ましい、。もとより自由へのあこがれが強い僕でしたので、当時は羨望の念しかありませんでした。
似た方向に進むというのに、取る方法が違った友人と私。そこから10年ちょっとかかったけれども、現在お互い地元に戻り、それぞれ自分らしいスタイルで、有機農業を営んでいます。出会えたこと、今でも付き合ってくれていることに、感謝の念でいっぱいです。
長い旅路。仙人への旅路。最初は逃避だったのかもしれない。けれども、道中色んな進み方をして、並走してくれる仲間が出来て、あとどれくらいでたどり着けるのかわからないけれども、充実した、意義ある旅路になって来たなぁと感じています。
つづく
2018年05月25日号掲載!
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農業高校特別編 農業高校生独特の青春 農業鑑定競技とFFJ②
~今回は後編です~
農業高校生の甲子園、『農ク全国大会』。僕はこの中の、「農業鑑定競技(以下農鑑)」というものに、没頭して取り組むこととなりました。
農鑑、とは、『農業に関する160以上の項目に、さらに小分けに各項ごと具体的な器具や機械、植物、病虫害や農薬の名称等が羅列された「農鑑実施基準」という表を基に、それぞれの項目について自主学習し、出題される40問の問題に各20秒~40秒間で答える』という形で行われる競技でした。「実施基準」には物の名称しか載っておらず、そのものの何が出題されるのかは、まるで知らされていない という競技なので、記載されている名称を基に、出来るだけ個々を詳しく調べ上げ、覚えなくてはならないのでした。
ネット黎明期の当時は、パソコンを開いても理科学系・農学、まして現場の情報などほとんど載っておらず、図鑑を何冊も借り、コピー機をうならせまくり、それでも載っていない情報は先生に聞き、微に入り細に入わたる先生も知らないような情報は、農家への聞き込みや、資材店への突撃で情報をかき集めるしか、ありませんでした。僕は毎日調べものをしている生徒でした。
「図鑑を持って歩いている人」と言えば、校内で僕のことを指すようになっていたと思います。人と違って目立つことにも、だいぶ耐性が付きました。必要に迫られる形で、普段話しかけることのない先生や街の大人達に話しかけるようになり、苦手だった他者とのコミュニケーションも、苦手なりに行えるようになりました。
さらにはこの競技、項目が多岐にわたりすぎているので、現在までの農の知識の根底になっています。高校や大学で学ぶ講義についても、そのほとんどは「農鑑実施基準」に網羅されており、その後の学びも全て、実施基準へのあとのせ・上乗せ で、現在まで来ています。
今思えば、農業高校・農クは、農業の世界で活躍できる力(もちろん他の社会でも活きるが)を、最短最年少で身につけさせてくれる仕組みとなっていました。卒業後もその恩恵は続き、全国的な農業系の集まりでも、参加するとOBが沢山いるため、同じ話題で盛り上がることが出来たり(「農業クラブの歌」とかは各校校歌以上に歌える人が多い)、当時は知り合いでなかった同年代でも、同じ全国大会の思い出を共有したりしているため、急に関係性が深まったりと、自分でも思わぬ形で当時の労が報われることがあります。
農業高校の特別な点は他にもあり、早期から資格試験に熱心に取り組ませてくれます。クレーンの操縦やガス・アーク溶接等は後半にならないと取得できませんが、危険物取扱者や毒劇物取扱者の試験は早々から全種取得を目指すことが出来、達成すれば『化学系の4年制大学を卒業したのと同程度の危険物に対する知識を有する』ことと、されているらしいです。農業高校は専門科目の学習があるので普通科に比べて一般科目の学習範囲が狭いですが、実践的に学ぶことが出来ます。かいつまんで学習しているので落ちはありますが、大学で普通科出身の友人と話をするときの、「理解のとっかかり」程度には、機能してくれました。他にも、農業経済コースを先行した仲間は、日商簿記検定を受験していたりと、卒業後若いうちから起業するのには最適な学習ができる環境にありました。
農業高校、、。若いうちからやりたいこと、興味の方向性が定まっていて、周りに流されずに過ごせる自信のある人には、ぜひおすすめの進路の一つです。狙いがあれば、若い内から充実した日々が過ごせることを、僕は保証します。
つづく
―――― 追伸 ――――
さらに、当時は僕のような学生は少数派で、どちらかというとまだ「今を楽しく生きたい!!」と、いわゆる「高校生の青春」を全力で謳歌するために学生生活を送る生徒が多かったのですが、教育実習で母校にお邪魔した際には、ある意味「真面目な学生」が増え、庭園の設計コンペで大学生等に混ざって応募し、見事受賞をしてくる なんてことも、都度都度達成されるようになっていました、、。すごい。
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2018年04月25日号掲載!
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農業高校特別編 農業高校生独特の青春 農業鑑定競技とFFJ①
~今回は前編です~
僕が進路を具体的に定め、進む最初のスタートとなった農業高校。そこでは、農業高校生達の独特の青春が、送られています。現在は職業高校が漫画やテレビ等で紹介される機会も増え、一般にも理解してもらう機会は増えましたが、やはり分かりやすい入り口の紹介にとどまっている気がしています。今回は少し踏み込んで「ガチ勉強目的系農業高校生の青春」について紹介したいと思います。
農業高校には、日本学校農業クラブ(FFJ Future Farmers of Japan 以下農ク)というものがあります。農業高校独自の全国組織で、他の農業高校との交流も多い組織です。ちなみに、農業クラブ関係の年間行事も多いため、各校の農業クラブ長ともなると、生徒会長よりも存在感や権限(裁量)が大きい印象すらありました。生徒会での発言力も大きかったように思います。
そんな農クのイベントで、全国の若き猛者たちが集結する全国大会が、毎年行われています。内容はというと、各校クラブ長が一堂に会するクラブ員代表者会議に始まり、独自に決めた課題について大学の卒業研究のごとく研究を進め、その成果を発表するプロジェクト発表や、農や園芸にまつわるスピーチ発表を行う意見発表会、平板測量・情報処理・家畜審査・フラワーデザインといった競技種目、といった、各校・各地区を代表して選出されてきた者たちの、熱き戦いと交流が繰り広げられる催しとなっており、取り組む生徒たちはひと夏をその準備に全力で注ぎこむことから、「農業高校生の甲子園」とさえ、言われていました。
つづく
2018年03月25日号掲載!
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高校も後半が見えてくると、「研究者を目指すにしてもバイテクはよしておこう。有機農業や環境保全に関わっていける研究はないものだろうか」「研究者への道がないのであれば修行に行くのはどうか?一般的な社会生活からは外れることになりそうだが、実践者はいるのだ。訪ねていくのもありなのでは」等と思案し、日々の学びの他にも先の進路を模索するようになりました。
「福岡正信式の自然農法の田んぼで昆虫の研究をしている教授がいる」「里山の圃場をグループで管理しながら、有機農業を営む研究をしている大学がある」他、当時手段が少ない中でいくつかの事例を調べ上げ、『社会から外れずに仙人になるには』という難題に向けての道を模索するようになっていました。
当時一般的にはなりきれていなかったインターネットでしたが、オタク趣味があったのでうちには通じていました。ネットを見ても現在のようにたくさんの情報がある時代ではなかったのですが、大学等のホームページは存在していました。覚えたての電子メールを、研究室のページにあったアドレスを手打ちして、送ったりしたのです。
あまりメールも来ない時代だったのか、そんな礼も知らない10代からのメールにも、教授先生から返信をいただくことができました。「今は偏差値で大学を選ぶ学生ばかりだ。君のように目的意識を持って進学してくれるのなら、非常に楽しみである。ぜひ受験し、合格して下さい」と、温かいお返事をいただき、とても嬉しかったのを覚えています。結果その大学は落ちてしまい残念ではありましたが、「頑張り次第、行動力次第では、学術機関も遠い存在ではないのだ」そう思うことが出来るようになった原体験となっています。
現実には、『ともすれば農の実践をしたいのに、若い時期を無駄にすることはできない』と、第一希望への進学はあきらめ、遠く宮崎の私大に進学することにしました。ほとんど未知の地、宮崎。しかし運命的にも、最も望んでいた形での学びが出来ることに、なったのです。
つづく
―――――――― 以上本文 ―――――――
―――――以下は著者の独り言です―――――
~そして今思っていること~
現在、有機農家として栽培していますが、不思議なことに有機農業を行っている人の中にも、昆虫に疎かったり、雑草には興味がない人が、思いのほか多いのが、残念というか、意外なのでした。僕はそれらが好きで有機農業を始めたのだけれど、人によっては「邪魔者」以上の感覚を持っていないこともあって、びっくり。
農業高校編はこの辺で終わりになりますが、高校で学んだことは授業や研究以外の所でも、今の営農知識の礎になっている部分がありますので、次回特別編「農業高校生独特の青春 ~農業鑑定競技とFFJ~」でお送りします。
ついに今月末日をもって、「主要農作物種子法」が廃止されます(-_-;)
「無くなるものを嘆いたってしょうがない」「でもこのまま放っておくとどうなるの?」「じゃあ今何ができるんだろう」「ていうかそもそも種子法って何?農家じゃないから関係ないでしょ?」
そんな疑問にお答えするためのイベントが、今週末に開かれます。
僕の所属する長野県有機農業研究会と、仲間が運営・共同代表を務めているNAGANO農と食の会の合同イベントとなっております。
(当日券もあるけれど、前売りだと少しお得なので、よかったらお声がけください(笑))
これって今結構大ごとになっていて、国が廃止を決めたのに、「それじゃ困る」と心ある各都道府県が、独自に各県の種苗を守るために条例を制定し始めたりしています。
「国が辞めたのに何で都道府県で守ろうとしてるんだろ?」そう思ったあなた、とてもするどい。
そう、「守らないとヤバいから」です。
廃止になる『主要農作物種子法』は、戦後食糧確保の必要性が誰の目にも明らかだった時代にできた法律で、「国民の食糧・またそれになる種子の供給・確保の責務は、国と都道府県が負う。当たり前だろ!」という、カッコいい法律で、それを根拠法としてこれまで各都道府県の研究機関が、コメ・麦・大豆の原種や原原種(皆がごはんで食べる品種の、さらに元になるもの)を、維持管理・保存してきたのでした。
でも昨年、ほんとに突然です。政府の『規制改革推進会議』からの提言ということで、ほとんど国会での審議もないまま、廃案が可決されてしまいました。
理由としては『民間企業が種子ビジネスに参入しやすくするため』だそうですが、、、。もう参入してますよね? タキイさん、カネコさん、トーホクさんもナントさんも、何か不利益被った顔してますか???
廃案になることで、主要農作物の開発、維持保存に振り分けられていた国の予算は、「振り分ける必要がない」ものに、なってしまいます。国は「デカい影響が出ないようにしばらくは予算出すよ」と言っていますが、「しばらく」です。裏を返せば「しばらくは出すけど、後々なんて知らないよ。国民の食糧?「輸入すればいい」とか言ってる人もいるんだから、勝手にしてよ。僕らは責任を負わないよ」ということになってしまいます。
うーんまずい、有事の時には、輸出国が「外に売ってる場合じゃない」ってなった時には、皆さん食べるものが無くなっちゃいますよ、、。僕は農家だからいいけど、、。いや、そうも言ってられなくなるんだな、。
それじゃまずいから、民間から、地方から、「種の権利を、食糧主権を守ろう」と声が上がっている「種子法廃止問題」。
たぶん近場で開催される中では最も分かりやすい勉強会の一つだと思います。
難しい話も中にはあるけれど、「子育て中のお父さん・お母さんに向けたメッセージも多分に含んだ勉強会を」と、段どっております。
皆さんお誘いあわせの上、どうぞお出かけくださいませm(_ _)m
2018年02月25日号掲載!
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ひょんなきっかけから、ぐいぐい自然農法や自然農の魅力に引き込まれ、高校3年生の頃には庭にテントを張って自給自足を試みようとしていた頃、当時(2001年頃)は『無登録農薬問題』等で「食の安心・安全」という言葉が世間で使われ始めた時期でした。『肥料取締法』の改定に向けて大きな動きがあったり、『有機JAS法』が施行されたりして、農業高校教員に対しての説明会が学校で行われていました。飛び込みで先生達に混ざって参加し、質疑の時間では先生そっちのけで中心となって質問をしていた記憶があります。
「有機農業が公にも認められ始めた。実践をしている人もいる!僕ももっと直接的に、環境保全に資する農業に取り組みたい!自然界の理の中に身を置いて生きていきたい」
やっとバイオテクノロジーの本格的な研究をする段階になったころには、僕の気持ちは完全に里山と自然農的な農業に向かっていました。外にも出たいはずです。
窓の外、圃場で研究をしている他コース専攻の友人の様子も見えます。自然農の本を読ませてくれた友人は『自家製ぼかし堆肥の研究』等をやっていました。超楽しそう。同じ微生物を扱うことではあれば、、あっちの方が面白そうだ。うぅん、外に出たい。
そんなエネルギーが強まりつつあった頃合い。
手元を見れば、試験管と寒天培地と植物片。入学当時よりは格段に詳しくなったバイオテクノロジー。付随して知ったバイオテクノロジー界の現状が、ありました。
遺伝子組み換え等をしても、現状使われているのは除草剤耐性など、企業の利益に関わる部分ばかりでした。なおかつ付随する環境破壊や、倫理上の問題、未知の危険性への危惧等、今でもそうですが、当時はバイオテクノロジーに対する反発的問題が山積していました。私自身、「それなら取り組みたくないな」と、思う所があったので、「研究者を目指すにしてもバイテクはよしておこう。有機農業や環境保全に関わっていける研究はないものだろうか」「研究者への道がないのであれば修行に行くのはどうか?一般的な社会生活からは外れることになりそうだが、実践者はいるのだ。訪ねていくのもありなのでは」等と、思案するようになりました。
つづく
―――― 以上本文 ―――――
――以下は、著者の独り言です――
伸るか、反るか。今考えても結構な転換期だと思います。
現在は有機農家として、主要農作物種子法の廃止と、種苗法にその一部を位置づけるという事務次官通達についての勉強会を企画していますが、「国民の食糧主権・食糧安全保障を守るためにも、主要な作物や優れた品種の開発、維持保存は税金を投じてでも国(政府・行政機関)がするべきなんじゃあ、お願いするべきなんじゃあないだろうか」という立場からの勉強会の企画となっています。もしもバイテクの研究者になっていたら、「遺伝資源を民間に明け渡してもらおう。よりよい品種はもちろん作るが、その権利は法律でがっちり守ってもらおう。これはビジネスチャンスである。どうやったら、売れる品種が作れるかな」という内容の勉強会を企画していたのかも、、。
2018年01月25日号掲載!
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「今やっていることも面白いのだけれども、、外に出て土や作物に触れたいなぁ」
高校の卒業研究をする頃合いになると、そんなことを思うようになっていました。
『幼いころの約束も叶えたい』『中学の先生はじめ、皆に応援してもらって「研究者への道を進む」と宣言して送り出してもらったのだから』『非農家が自給自足をしたり、新規就農するなんて、社会的・経済的に成り立つのだろうか?』 そんな思いもあって、バイテクを選択していたのですが、
『研究者になりたいという現実的な夢こそかりそめ的なもの。端的に言えば、仙人になりたいと言うのが本心』『自然界の理を知って、うまく活用し、自らもその一部として生きていく。自然と人とが折り合いをつけて共存している「穏やかでゆるい里山環境」、幼少期に過ごしたような環境の中で生活したい。』そんな意見が顔をのぞかせてきていたのです。農業に関してがむしゃらに学び、本心をごまかしてコントロールしていたつもりが、もはや抑え切れなくなってきていました
もともと持ってた「里山回帰願望」。火をつけたのは全然農業とは関係のない所。放送中だったテレビアニメでした。当時の僕はがっつりオタクな高校生。オタク的ゴールデンタイムでの放送だったため、意識もせずリアルタイムで見ていたアニメの、作中の描写から「自然農・自然農法」を知ることとなったのです。
きっかけをくれたのは2001年放映の「地球少女アルジュナ」という社会派アニメーションでした。当時のオタク受けはド底辺、過激なトラウマものカルトアニメとしてしか知名度を持たなかったアニメですが、福岡正信氏をモデルにした老人が出てきて、人里離れた山奥で川口由一方式の自然農をしていたのです。「虫も、草も殺さず、耕すこともしない、生き物任せの田んぼじゃ。この食べ物はやがてお前さん自身の体になってゆく。未来の自分の姿だ。虫も、草も、大地も、未来の自分である。一つになれる。この世にはもとよりいいも悪いもありはしない」遭難してきた普通の女子高校生である主人公に、ご飯を食べさせ、田畑を見せて、あの風貌のご老人がそんなセリフを投げかけるのです。僕の興味をひかないはずは、ありませんでした。
このアニメの監督さん自身が当時自然農をやったりしていて、アニメ雑誌に「川口由一」「福岡正信」の文字が出ていました。当該雑誌の監督インタビューからその農法と両氏を知り、調べ回っていた所、偶然時を同じくして、同級生が「妙なる畑に立ちて」を読んでいました。えっ、それどこで見つけたの!?僕にも読ませて!!と。
そこからはぐいぐい自然農法と自然農の魅力に引き込まれ、高校3年生の頃には庭にテントを張って自給自足を試みよう と、計画書を書いたりしている程でした、。今思い返すと、若い熱量と勢いってのは、すごいですね、。(笑)
つづく
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10年経っても諦められなかった夢、
自分の中でもぞもぞした夢。
叶えてその後、10年が経ちました。
『農家』になってはや10年、。
人もうらやむ夜更かし昼寝。自由が利くのはいいけれど(笑
手伝ってくれる仲間も出来た。、あとは稼ぐだけ!!のトコまで来た(笑
まぁそこまで。 まだ稼げてはないんだなぁ、、。
稼ぐ以外のやりたいことは、やり切ったからいいんだけどね✨
お客さんにもボカスカ買っていただけてる。「インディーズ ファーマー」って肩書は取れたw
あともうちょっと、。人が羨むぐらい稼いだら、世の中も勝手に変わるんじゃないかと思ってる、、。
まぁ、焦るな焦るな。忙しい中でものんびりと。納得のいくように、やりますv
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愛車、ミゼット2。小学生の時に気になり、「いつかは乗りたい」ともやもや過ごし、運転免許を取得した帰り、中古屋さんで偶然の出会い、そして即購入。以来17年、一緒にいてくれています。
今はお庭でお休み中。でもまたいつか、走りたいね。
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愛猫みるくは、大学の2年目、生後6日の所を拾い、そこから一緒に暮らしてきました。この4月、17歳で逝去しました。
早かったなぁ、長かったなぁ。
いつもありがとう、今もありがとう。
そんなこんなの僕なのでした。
2022 04月 更新。